悲愴と坂道
チャイコフスキーの悲愴の統一主題のひとつが、各楽章終盤にあらわれる下降音形である。
表題もとづき負の感情に揺られて絶望へ落ちて行くのか、それとも情熱という意味でのパテティチェスカヤととれば、慰めと優しさで高ぶる気分がおちついていっているのか。
どちらにせよ、曲を締めるうえで効果的な役割をしている。
この下降音形をきいて思い出したなぞなぞがある。
「東京には、上り坂と下り坂のどちらが多いか」
というものである。
下りつながりで。
このなぞなぞの巧妙なところは、エリアを東京に限定して特殊性を感じさせている点であり、つい、東京の地理や何やらを考えさせる。
もちろん「東京」の部分がパリやローマや、果ては御殿場なんかでも構わないが。
答えは「どちらも同じ」なわけで、われわれがいかに主観にとらわれ認知をしているかを気づかされるものとなっている。
たしかに、上り坂をのぼりきり折り返したらそれは下り坂となる。
なんとかこれを論駁できないかと莫迦なとこを試みたりもする。
人が、道を下ることができなくなれば下り坂という概念もなくなり、あるいは…?
堕落の勧め
夏休みに入り、高校生までの気分が抜けない人は堕落したくなる。
堕落とは、するべきことの有無に関わらず、身体に重さを感じ、頭は冴えず、常に臥した状態にあることである。
病に非ぬ病ともとれよう。
身体に異常はみられないが、病床のときとおなじように活動が著しく低下している状態となる。
これは特に長期連休に入ると見られる現象である。
みなさんは是非これを看過してほしい。
無理に身体を起こしてはいけない。
毎日動かし続けた身体をいたわって、休ませてあげてほしい。
おつかれ、がんばったね、と。
ケータイをいじりつづけてもいい、指の皮を剥きつづけてもいい。
ちょっとくらい課題を手放したっていいじゃない。
いたわり続けてはや2ヶ月…
タブラ・ラーサ
人は白紙状態(タブラ・ラーサ)で生まれてくるとアリストテレスは言った。
はじめは何も知らず、経験を通し様々な感覚を得ていくのだそうだ。
要するに、サラのキャンバスに、絵の具を塗りたくり一枚の絵画を描くようなもの。
上の例えは、わかりやすく人間を表すことができると思う。
絵画では、繊細な筆で写実的に描く人もあれば、点描による一見不可思議なものを描く人もいる。
人生もまあ、そんなものなんじゃないかと言いたいわけで、選ぶ筆も、描くものも人それぞれである。
現代アートの価値をめぐる話題を目にすることがある。
なぜあのような空疎で、無機質な、情緒的でない造形物に高値がつくのかというはなしである。
多くの人が価値を見出していないような印象を受ける作品が、想像もつかぬ価値が与えらるのを見ると、何かを品隲するにも主観一辺倒では無意味だと気づく。
空疎なのは自分の審美眼の方であった。
ああ、彼のキャンバスはやはり価値あるものにも見られるのか。
局所的な価値でも、クローズな高評価なら幸せではないか。
世界は彼の目に現れるものなのだから。
造形の完成はいつだろうか。
死のみが点睛を許される。
そうか、人の価値は死して決まる。
パイン飴考察
部室にパイン飴がたくさん置いてあったので舐める。
おいしかった。
なぜパイン飴はパイン飴なのか?
パイン飴がパイン飴であると言える特性は、①黄色い、②パイン風味、③穴が空いている④飴である、の四点。
①について。
黄色いものは全てパイン飴になるのか
②について。
パイン風味の飴がパイン飴なのだから、これが一番具合が良い。
③について。
穴が空いているのもがパイン飴なのだと言うのなら、虫歯もパイン飴。
私の歯は治療済みなのでパイン飴ではない。
④について。
論外。
パイン飴なんだから、飴にちがいない。
…
結論:ぼくは何がしたいんだろう。
瀬田学舎にもぐりこむ
魔がさして、瀬田学舎に潜り込む。
折々のイヴェントに参加するために、何回か瀬田まできたことはあったが、授業をうけるのは今回がはじめてだった。
歩くと瀬田は、深草の雑々とした窮屈さとは違い、広々と落ちつく空間だった。
敷地を歩く人の数は場所によってことなり、昼時の訪問だったためか食堂の密接するところには、人の群がひしめいていた。
食堂はゴキブリほいほいと同じである。
食は生き物を裏切らないね。
手違いで大盛りのタレカツ丼を頼んでしまったが、おいしかったので良し。
授業では、礼と責任の教えを賜った。
宗教学の授業だったが、あまり関連はない。
社会参入への基本を伝えてくれたが、教授に社会的な協調性が見られなかった。
反面教師が礼儀を説くというのはよくあることで、彼らはそうして益々非協調的なキャラクタを強めていくのだ。
瀬田、深草間のスクールバスは快適で、今にも寝てしまいそう。
2014.7.28
於、スクールバス
たぶん3日で飽きるとおもう
中学生の頃から、何度かブログを書こうと衝動にかられて試みたことがあった。
よくて(合計)1週間つづいたと思う。
仏の顔も三度までと言うし、もう辞めるべきなのだろう。
それでも懲りないのは、溢れだす文学への憧憬のせいなんでしょう。
友人には名エセー書きがいる。
Facebookで長文の日記を投稿している。
友人との戯れや自作料理のことから、価値ある小話やギャグなど、優れた文才を披露している。
ぼくも欲しい。
ああ、ねむいのでもう寝ます。
さっきケータイを落としかけました。